ヒップホップダンスの歴史
 
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ヒップホップダンスの歴史
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ヒップホップダンスの歴史

<第1章>ポッピングとロッキング

ポッピングとロッキングは、ともにロスアンゼルスにそのルーツを持つ。その歴史は古く、ブレイキングが生まれる以前の1960年代までさかのぼる。ポッピングは、エレクトリックブガルーと呼ばれる、ロスのストリートダンスグループによって、ロッキングは、ロッカーズと呼ばれるグループによって、それぞれ創り出された。これらは、後に、ニューヨークのB-BOY達にも取り入れられ、ヒップホップの一部となった。ロックステディークルーのミスター・ウィグルは、ロスのポッピングをニューヨークのダンサーが、よりファンキーな形で取り入れたので、ニューヨークではエレクトリックブギと呼ばれたと主張している。

ポッピングとロッキングの始まりは、ロボットダンスとされている。1960年代の『ロスト イン スペース』といった番組に刺激を受けたロスの黒人の子供達がロボットダンスを創り上げた。 未来のアニメーションのようなものは、いつもゲットーに住む貧しい黒人の子供達を魅了してきた。というのは、それが、貧しく無為秩序な現実世界からの逃避手段であったからだ。そんな状況の中で、未来のロボットの動きを真似たロボットダンスを、より機械的なリズムを持つジェームス ブラウンの「グッド フット」のような曲に合わせて踊ることは、自然の流れだったのかもしれない。

1969年、ドンキャンベルという1人の黒人青年が、その名にちなんでつけられたキャンベルロックというダンスを生み出したことで有名になっていた。彼のダンスは、フレッドステアのような派手なタップダンスの手や足の動きと、ロボットダンス、そして、ぴたっと止まったり、動いたりするようなコミカルな動きに、コミカルな表情、そして、ピエロのような衣装など、全てをミックスした全く新しいもので、後にロッキングと呼ばれるようになった。(1)

70年代初期に、ドンキャンベルは、”ザ・ロッカーズ”を結成。メンバーの中には、映画「ブレイクダンス」で有名になったシャバドゥーや、人気コメディードラマ「What's happening」のリランの役で親しまれた、ペンギンなどがいた。70年代のロッカーズは、底が厚いプラットフォームシューズや、ストライプのソックス、膝のちょっとしたまでしかない長さのパンツ、派手な色のシャツに、蝶ネクタイ、変わった形をした異様に大きな帽子に白い手袋をはめるのが、彼らのスタイルだった。

当時、テレビ振付師として知られ、「Shipping」や「Hullaballo」といった番組で有名だったトニーバジルは、このドンキャンベルと、そのグループのロッカーズを紹介し、彼らを世界的に有名な存在にした。トニーバジル自身のダンサーとしての才能はすばらしく、すぐにロッキングを身に付け、ロッカーズのメンバー入りをし、その後、ロッカーズを「Saturday Naight Live」といったテレビ番組や、ビールのコマーシャルなどに出演させた。1972年頃には、「ソウルトレイン」という番組が、ロッカーズを始めとするストリートダンサーを起用して、その人気を急激に高めた。当時のロスには、「クレンショウ」という名のクラブがあり、ソウルトレインダンサーのたまり場として盛り上がっていたらしい。

ちょうど、ニューヨークでブレイキングが生まれ流行していた1972、73年頃、カリフォルニアのフレズノという小さな町で、ある黒人家族の兄弟達が、新しい踊りを創り上げていた。そのスタイルこそ、ポッピングであった。映画「ブレイクダンス」にも出演し、初期のロッカーズのメンバーでもあったストリートダンサーのポッピンピートは、自分の兄弟と一緒に、ポッピングを創り上げていった。ポッピングは筋肉をコントロールすることによって、体をはじく(ポップ)ように見せるもので、それに、身体に波が走っているように見せるウェーブなどをミックスして踊るスタイルである。ポッピングは、その後サンフランシスコで注目され、やがてテレビ産業のメッカ、ロスアンゼルスに到来。すぐに「ソウルトレイン」で紹介され、ロッキングと共に人気を博した。その後、ブレイキングが大流行していたニューヨークでもポッピングは人気を呼び、ヒップホップのダンスとして取り入れられるようになった。

<第2章>ブレイキング

B-BOYINGとは、1980年代に流行した頭や背中でくるくる回るダンスで、通称ブレイクダンスやブレイキングという名で、世間一般にはよく知られているスタイルである。ブレイキングは、正式にはB-BOYING(ビーボーイング)と呼ばれるダンススタイルであるというのは、ロックステディーのクレイジーレッグスが口をすっぱくしていつも言っていること。というのもブレイクダンスというのはメディアによって勝手に名ずけられたものであり、もともとブロンクスではB-BOYINGと呼ばれていたからだ。B-BOYINGは、B-BOYが踊るスタイルというところから派生されたものだが、そもそもB-BOYの意味は意外と知られていないものである。B-BOYの"B"はBreakの"B"で、ダンサーたちがその昔、曲の1番と2番の間にある歌詞なしのビートだけの盛り上がり部分であるBreak Beats(2)に合わせて踊ることから彼らはB-BOYと呼ばれた。B-BOYINGは、どうしても動きの派手な、パワームーブ(大技)にイメージが行ってしまうが、実際にはトップロックに始まり、フットワークなどのエントリー、そしてウインドミルやヘッドスピンといったパワームーブ、そして最後を決めるフリーズの起承転結を含んだ奥の深いスタイルである。またB-BOYINGには、常に他のB-BOYと技を競いあうバトルが常につきもので、これはアフリカバンバータが、70年代のストリートギャング抗争が激しい時代に、「争うならダンスで争え」と提案したことにも関わりがあると思われる。実際、トップロックのスタイルのひとつ、ブルックリンロック(アップロック)は相手をリズムにあわせて殴ったりするような動きを真似たもので、相手を威嚇するために使われたりするほどである。

さてこのB-BOYINGが生まれたニューヨークサウスブロンクス地区で、それらしき踊りが現れ始めたのが1970年代前半。ジェームスブラウンのヒット曲"Good Foot"にちなんでつけられたGood Footと呼ばれる踊りが、その走りと呼ばれる。この頃は、足だけを使うシンプルなフリースタイルの踊りであった。その後この踊りが進化し、やがて"boie-oie-oings"と呼ばれるようになった。また、これに手を使って地面で体を支えながら踊るものが現れはじめフットワークのスタイルが生まれた。ちょうど同じころブルックリンではブルックリンロックと呼ばれる立ったり座ったりするような踊りが登場、後にアップロックと呼ばれるようになった。こうしてB-BOYの第一世代が登場、黒人のクルー、Nigger TwinsやClark Kentといったクルーが名をはせていた。1977年には、今のロックスディーの母体となるZulu Kingsと呼ばれたクルーもクラブをにぎわすようになった。この世代のB-BOYINGにはまだウインドミルやヘッドスピンといった体ごとスピンする技はなくフットワーク中心であった。しかし、B-BOYINGも77年頃から黒人の間ではその人気を失いつつあった。その死にかけたB-BOYINGに新しい命を吹きこんだのは同じブロンクスに住んでいた若いプエルトリコ系のダンサーであった。彼らはB-BOYINGの第二世代と呼ばれ、フットワーク中心のブレイキングにウインドミル、ヘッドスピン、ハンドスピンといったアクロバティックな要素を取り入れた。それぞれの技は、いろいろなところから取り入れられたと言われる。有名なところでは、カンフーの起き上がる動きを連続することで生まれたウインドミルであろう。それ以外にも、単に似た動きが偶然に存在するだけかもしれないが、ヘッドスピンはアフリカの民族ダンスに、エルボースピンはロシアンダンスにルーツがあるなどと言う説もある。プエルトリコ系B-BOYの活躍で勢いをとりもどしたB-BOYムーブメントはやがてマンハッタンのRoxyといったクラブで紹介され、マンハッタンでもB-BOYINGが街角で見られるようになった。B-BOYINGが全米そして、世界的に知られるようになったのは1982年公開の映画「フラッシュダンス」(3)でとりあげれてからであった。そのシーンはごく数十秒のものであったが、その衝撃はかなりのものであった。実際、現在活躍する日本の有名B-BOYもこの映画を見てダンスを始めた人も少なくない。「フラッシュダンス」以後、「ブレイクダンス1、2」、「ビートストリート」、「クラッシュグルーブ」などブレイクダンス映画が次々に作られ、TVのコマーシャルに多用されるなど、一大ブームを築いた。

しかしながら、この1980年代前期のアメリカにおけるB-BOYINGの過度なメディア登場は、85年以後、B-BOYINGがメディアへの露出が減少した時に、大衆に「B-BOYINGは単なる流行だったのだ」というイメージを持たせる結果を生んだ。クラブでB-BOYINGをやろうものなら、時代遅れの目で見られ、多くのB-BOYが姿を消した。レコード会社と契約し、ヨーロッパツアーを行っていたロックステディクルーも、事務所側との契約のもつれで、グループとしての活動停止を余儀なくされた。 B-BOYING冬の時代である。こんな状況でも、真のB-BOYたちは、世界中で根強くブレイクを続け、新たなる時代の到来を待った。特にロスやサンフランシスコなど西海岸の都市では、パワームーブ(フットワークなどでなく大技)の進化や新たなコンビネーションの発明が、一部のB-BOYの間で確実になされていた。これを受けて90年代始めにはロスやサンフランシスコで後に「The resurgence of B-boying」と呼ばれるB-BOYINGの復興ムーブメントが起こりはじめた。このムーブメントは、ゆっくりではあったが着実に全米、そして全世界にひろがった。1992年にはロックステディクルーがついに正式に活動を再開。B-BOY SUMMITやRSC ANNIVERSARYといったイベントには世界中からB-BOYが集まるようになった。日本ではヒップホップやハウスなどニュースクール系のスタイルのダンサー人口が、B-BOYよりも多いが、世界的にはみれば、現在もBーBOYINGまたはブレイキングは最も知名度のあるスタイルであり、その人口も多いということも触れておきたい。

現在B-BOYINGには大きくわけて2つのスタイルがあるようだ。一つは、フットワークを主体とする通称リズムブレイキング、そしてもう一つは大技を主体とするパワーブレイキング。リズムブレイキングはロックステディクルーが提唱するスタイルで、「B-BOYINGが体操ではダンスである以上、音楽のリズムを大切にそしてダンサーの個性をだしていくべきだ」というコンセプトのもとになりたっていると言える。パワーブレイキングは、アクロバティックな技を磨くことに重点を置き、確かにダンサーの個性や、音楽に対する感性は、回ってしまうと出しにくいものがあるが、そのインパクトは強い。現在アメリカのB-BOYの間では、この2つのスタイルをめぐる論争がB-BOY SUMMITなどでなされている。

<第3章>ニュースクールヒップホップ

ニュースクールヒップホップは一般的にヒップホップと呼ばれているが、この呼び方による起こりうる問題は、ブレイキングやポッピング、ロッキングといったオールドスクールがさもヒップホップの踊りでないように聞こえることである。世の中にはオールドスクールはリアルヒップホップではないという大勘違いをしている輩もいるが、オールドスクールもヒップホップカルチャーであり、まぎれもなくヒップホップダンスなのである。このことから、ここでは1985年前後に生まれたヒップホップダンスのスタイルをニュースクールヒップホップとして分類することにしている。

ニュースクールは、ブレイキング、ポッピング、ロッキングなどと異なるヒップホップのダンススタイルである。その昔ヒップホップミュージックはプラネットロックやジャストビガンといった曲に代表されるように速めのビートを持ったものであったが、ヒップホップミュージックは時代とともに常に変化していき、ブレイキングが新しいヒップホップミュージックに合わなくなった時、その変化に合わせるべく必然的に生まれたのがニュースクールヒップホップである。1986年頃が、その始まりとされ、ワップやランニングマン、ロジャーラビット、ロボコップといった動きが有名である。この時代のニュースクールは、比較的シンプルなものであったが、その後ポッピングやロッキングなどの要素が取り入れられ、またレゲエなど他のダンススタイルから影響を受けるなどして、洗練されたスタイルに進化した。ニュースクール初期は、ラッパーも好んでダンサーを使いビデオやライブではダンスを見る機会に恵まれていたが、近年はヒップホップミュージックのハードコア化などの理由からダンサーは使われない傾向になっているのが非常に残念なところである。このことからニュースクールのアンダーグランド化が進み、結果的にニューヨークやロスアンゼルスといったダンス文化の豊かな都市とそれ以外のアメリカの都市のニュースクールダンスのレベルの差は激しく、いまだにランニングマンなどの初期の時代で止まっている都市が多い。アメリカでは日本と違って、オールドスクールがヒップホップダンスのマジョリティーであるのも、そのためであろう。

アメリカにおいてオールドスクールVSニュースクールの議論がなされることがあるが、どちらが上かを決めるのは非常に無意味である。オールドスクーラーは、「ニュースクールはウインドミルや1990などの技のあるオールドスクールと比べれば、誰でもちょっと練習すればできるものである。」と主張するものもいるが、これは何の意味もない主張である。というのは、その踊りの性質そのものが、ニュースクールとオールドスクールでは異なるからである。ブレイキングは、特に大技をスタイルの中心とするパワーブレイキングでは、技ができるかどうか、速くまわれるかどうか、というように技術そのものが問われることが多く、より体操的であるのに対し、ニュースクールは音楽に対していかに踊るか、いかに表現するかといったように、よりダンス的なのである。何ができるかでなく、何をするかを問題としているのだ。フレイバーが重要なのである。もちろんそれを表現するためにかなりの技術も必要であるが。

<第4章>ハウス


ハウスダンスはニュースクール系に分類されるダンスで、ハウスミュージックに合わせて踊るダンスである。なおハウスミュージックそのものが生まれたのはシカゴやデトロイトであるが、ここではニューヨークのハウスミュージックシーンをベースに話しを進めることにする。ニューヨークでもトップハウサーとして知られるイージョーウイルソン(写真左)によると、ハウスダンスがニューヨークにて今のような形で踊られ始めたのは1988年前後。(ヒップホップという音楽が黒人に偏った音楽であるのに対しハウスはかつての70年代のディスコミィージックのように、色々な人種や色々なタイプの人々に愛される音楽だったことから、ハウスクラブには色々な文化的多様性が存在した。ハウスダンスはそのミックスされた多様な文化の雰囲気のなかから生まれた。アフリカンダンスを踊るアフリカ人、サルサやミレンゲを踊るヒスパニック系プエルトリコ人、サンバやカポエラをバックグランドに持つブラジル人、ジャズダンサー、モダンダンサー、タップダンサー、ヒップホップダンサー、B-BOYなど、そういった様々なダンススタイルがミックスされてハウスという踊りが形成されていったのだ。最近では、カポエラの影響が多大に見られる。イージョーいわく、ヒップホップは自分で体をコントロールするのに対し、ハウスはどちらかといえば音楽そのものが体をコントロールするスタイルである。これは、ハウスがよりフリースタイル的踊りであり、よりスピリチュアルな踊りであるという見方を意味していると言えよう。ビートが速いことからその踊りはフットワークが中心となる。ハウスダンスの初期は、ブライアンはフットワーク中心、イージョーはアクロバット中心というようにダンサーはそのどちらに力をいれていたが、最近の新しい世代のハウサーは、その両方をこなすものが多い。現在ニューヨークではヒップホップのクラブは常に喧嘩などのトラブルが耐えないことから、純粋に踊りを楽しめるハウスクラブに人気が集まっている。毎週水曜日のサウンドファクトリーバー、土曜日のバイナルなどが人気のハウスクラブである。

<第5章>カポエラ

カポエラとは、アフリカ系ブラジル人の格闘技であるが、その特殊な動きや音楽に合わせてセッションが行われたりすることからダンスとしても見られる特殊な格闘技である。そのルーツはアフリカにその昔存在した格闘技と言われている。

カポエラは、ブラジルの奴隷制の時代にアフリカから連れてこられた奴隷が、奴隷制や奴隷主と戦うために編み出されたもので、その修行は、奴隷主の目を欺くために音楽に合わせてさも踊りを楽しんでいるように行われた。また手が鎖でつながれていたことが多かったことから足技を中心とするのがその特徴。しかし、やがて奴隷主はこのカポエラの存在に気付き、その一切の練習を禁止、それを破ったものには死刑という厳しい政策をとった。その後、カポエラが正式に合法的に認められた1930年代までの400年の間、カポエラは密かに世代から世代へ受け継がれていった。カポエラには、空手と同じようにいろいろな流派が存在し、格闘技面に重点を置く派もあれば、その芸術性やダンス性に重点を置く流派もある。カポエラはその後アメリカを始め世界各国に紹介され、アメリカにおいては現在もブレイキングやハウスなどに強い影響を与えているのは有名な話しである。カポエラにはホダと呼ばれる1対1で行われるセッションみたいなものがあり、空手で言えば組み手にあたるかもしれないが、実際には戦っているわけでなく、お互いの動きで刺激しあって楽しんでいるというべきであろう。カポエラには、音楽がかかせなくその楽器は非常に特殊なもので、バリンボウという弓型の楽器がその中心である。最近では「Only the Strong」というカポエラを題材にした映画が創られたり、ゲームに登場するなどと比較的知られるようになっているが、今だ神秘の格闘技である。日本では、カポエラジャポンが今のところ唯一のカポエラカルチャーを伝えるべく頑張っている。

<第6章>ビバップ

実はビバップについての情報はまだまだ不足していますが、このスタイルはそれでも触れておかなければならないスタイルなので、敢えて紹介したい。通称ビバップは、91、92年頃日本のストリートダンサーの間で流行ったタップダンスのストリートっぽい踊りとでも言える。もともとロンドンのアシッドジャズのクラブのようなところで、黒人が踊っているスタイルらしい。そのスタイルは、ジャズやバレエ、タップ、リンディホップといったいろいろな要素が含まれたハイレベルのものである。アシッドジャズ以外にも、パフォーマンスにはジャズオーケストラミュージックが使われることもあり、そのリズムは複雑でそして高速であることから、極めて難しい踊りと言える。日本ではロンドンから3人組のブラザーズ・イン・ジャズが91年に来日し、ビバップが始めて紹介された。その後、サム、カズ、ホリエハルキといったダンサーが中心になってビバップが日本で盛り上がりを見せかけたものの、その音楽性や踊り自体のとっつきにくさからあまり定着しなかった感がある。しかし、メガミックスのビバップのパフォーマンスには定評があり、私自身もクラブチッタのメインストリートのパフォーマンスは忘れられることができない。 <第7章>日本のダンスシーンについて

1983年に公開された映画「フラッシュダンス」を機に、日本に本格的なストリートダンスカルチャーが上陸した。この20年の間に、ダンスシーンは大きな変化を続けてきた。時をさかのぼれば、1983年以前は、ディスコダンスが全盛の時代で、ストリートダンスの社会的な認知は、不良のダンスだった。いわゆる社会からのドロップアウト組がディスコに通い、そのダンスを競っていたのが原点。ダンスの伝達方法は、師弟方とも呼ばれ、まずうまいダンサーのでしになることが始まりだった。もちろん、この手のダンスを教えるダンススタジオなどは、ほとんど存在していなっかった。そして、ストリートダンスが、日本に上陸した時代は、ちょうど民生のビデオデッキが出始めた頃と一致しており、ビデオ方の伝達方法が一気に広まった。もちろんハウトゥービデオなどもほとんどなかったため、PVに出てくる一瞬のカットをテープが擦り切れるまで再生(ほとんどがスロー再生)し、そのテクニックを会得していった。もちろんこの時代にも、ダンススタジオはほとんど存在していなっかったし、「ダンスは人に教えてもらうものではなく、盗むもの」という観念がシーンを覆っていた。しかし、1990年代に入り、テレビ番組やニュージャックスイングブーム(4)などの影響でストリートダンスが一気にメジャー化していき、ダンスにあこがれる層はスタジオを渇望した。そして、当然の流れとして、ジャズダンススタジオのレッスンの一部にストリートダンスが組み込まれるようになった。当時は、現在のようなダンスシーンの繁栄や、ダンススタジオの隆盛など、誰も想像しなっかったであろうし、一過性のブームと認知されていた。しかし、拡大の流れは1990年代末期から一気に巻き起こった。ヒットの原因は様々に考えられるが、後に、Zooを生みだしたTV番組「DA DA LMD」(TV朝日)現在trfのダンサーを努めるサムやチハルがレギュラーダンサーとして出演していた「ダンスダンスダンス」(フジTV)などが始まり、そのムーブメントは流行に敏感な若者の間にひろがった。しかし、日本におけるブレイクダンスにつぐ第二次ダンスブームに最も貢献したのはなんといっても「たけしの元気がでるTV」の1コーナー「ダンス甲子園」であった。他の2番組が深夜番組であり、全国ネットでなかったのに対し、この「ダンス甲子園」は全国ネットで日曜日の8時という時間帯、そしてもともと「たけしの元気がでるTV」が人気番組であったことから、高校生を中心にダンスが爆発的なブームとなった。番組自体のヒップホップカルチャーに対する理解は全くといってないものであったが、現在トップレベルダンサーで活躍中のものの中で、この番組に出演したり、番組をきっかけにダンスを始めた者は多い。このブームは1年半ほどで終り、ダンスをやめるものも多数いたが、と同時にこの文化に心底惚れその世界にとどまるものも多数いた。ブレイクダンス時代からのダンサーと一緒に、こういった人たちが日本のストリートダンスを単なる流行のものから、根をしっかりおろした文化として形成していった。

<注>

(1)ロッキングは、自分の体にかぎをかけるように=ロックすることから、そう呼ばれるようなった。

(2)Breakには"休み"という意味があり、歌がない部分なので歌休み、歌手が休む部分ということでBreak Beatsと呼ばれた。

(3)この映画はヒップホップ映画ではなかったが、その一部に路上でブレイキングやポッピングをする子供たちにシーンがあり、その数秒のシーンに衝撃を覚え、ブレイクダンスを始める人は多数でた。ちなみに、この映画のラストで主人公のジェニファービールスがオーディションでバックスピンをするシーンがあり、これは実はクレイジーレッグスが女装してレオタードを着てやっているというのは有名な話である。

(4)1989年頃、日本にはニュースクールの新しい波がニュージャックスイングミュージックの流行とともにやってきた。ボビーブラウン、BBD、ガイといったアーチストのR&Bとヒップホップの融合のような音楽が流行し、そのビデオで出てくるブレイクダンスとは違った新しいステップ系の踊りが日本の若者のハートをつかんだ。

<参考文献>

塚本慶一郎『ダンススタイルベーシック』
原田充啓『ダンスディライト』
奥村浩三「ダンサーズディライト」

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