カポエラは、ブラジルの奴隷制の時代にアフリカから連れてこられた奴隷が、奴隷制や奴隷主と戦うために編み出されたもので、その修行は、奴隷主の目を欺くために音楽に合わせてさも踊りを楽しんでいるように行われた。また手が鎖でつながれていたことが多かったことから足技を中心とするのがその特徴。しかし、やがて奴隷主はこのカポエラの存在に気付き、その一切の練習を禁止、それを破ったものには死刑という厳しい政策をとった。その後、カポエラが正式に合法的に認められた1930年代までの400年の間、カポエラは密かに世代から世代へ受け継がれていった。カポエラには、空手と同じようにいろいろな流派が存在し、格闘技面に重点を置く派もあれば、その芸術性やダンス性に重点を置く流派もある。カポエラはその後アメリカを始め世界各国に紹介され、アメリカにおいては現在もブレイキングやハウスなどに強い影響を与えているのは有名な話しである。カポエラにはホダと呼ばれる1対1で行われるセッションみたいなものがあり、空手で言えば組み手にあたるかもしれないが、実際には戦っているわけでなく、お互いの動きで刺激しあって楽しんでいるというべきであろう。カポエラには、音楽がかかせなくその楽器は非常に特殊なもので、バリンボウという弓型の楽器がその中心である。最近では「Only the Strong」というカポエラを題材にした映画が創られたり、ゲームに登場するなどと比較的知られるようになっているが、今だ神秘の格闘技である。日本では、カポエラジャポンが今のところ唯一のカポエラカルチャーを伝えるべく頑張っている。
1983年に公開された映画「フラッシュダンス」を機に、日本に本格的なストリートダンスカルチャーが上陸した。この20年の間に、ダンスシーンは大きな変化を続けてきた。時をさかのぼれば、1983年以前は、ディスコダンスが全盛の時代で、ストリートダンスの社会的な認知は、不良のダンスだった。いわゆる社会からのドロップアウト組がディスコに通い、そのダンスを競っていたのが原点。ダンスの伝達方法は、師弟方とも呼ばれ、まずうまいダンサーのでしになることが始まりだった。もちろん、この手のダンスを教えるダンススタジオなどは、ほとんど存在していなっかった。そして、ストリートダンスが、日本に上陸した時代は、ちょうど民生のビデオデッキが出始めた頃と一致しており、ビデオ方の伝達方法が一気に広まった。もちろんハウトゥービデオなどもほとんどなかったため、PVに出てくる一瞬のカットをテープが擦り切れるまで再生(ほとんどがスロー再生)し、そのテクニックを会得していった。もちろんこの時代にも、ダンススタジオはほとんど存在していなっかったし、「ダンスは人に教えてもらうものではなく、盗むもの」という観念がシーンを覆っていた。しかし、1990年代に入り、テレビ番組やニュージャックスイングブーム(4)などの影響でストリートダンスが一気にメジャー化していき、ダンスにあこがれる層はスタジオを渇望した。そして、当然の流れとして、ジャズダンススタジオのレッスンの一部にストリートダンスが組み込まれるようになった。当時は、現在のようなダンスシーンの繁栄や、ダンススタジオの隆盛など、誰も想像しなっかったであろうし、一過性のブームと認知されていた。しかし、拡大の流れは1990年代末期から一気に巻き起こった。ヒットの原因は様々に考えられるが、後に、Zooを生みだしたTV番組「DA DA LMD」(TV朝日)現在trfのダンサーを努めるサムやチハルがレギュラーダンサーとして出演していた「ダンスダンスダンス」(フジTV)などが始まり、そのムーブメントは流行に敏感な若者の間にひろがった。しかし、日本におけるブレイクダンスにつぐ第二次ダンスブームに最も貢献したのはなんといっても「たけしの元気がでるTV」の1コーナー「ダンス甲子園」であった。他の2番組が深夜番組であり、全国ネットでなかったのに対し、この「ダンス甲子園」は全国ネットで日曜日の8時という時間帯、そしてもともと「たけしの元気がでるTV」が人気番組であったことから、高校生を中心にダンスが爆発的なブームとなった。番組自体のヒップホップカルチャーに対する理解は全くといってないものであったが、現在トップレベルダンサーで活躍中のものの中で、この番組に出演したり、番組をきっかけにダンスを始めた者は多い。このブームは1年半ほどで終り、ダンスをやめるものも多数いたが、と同時にこの文化に心底惚れその世界にとどまるものも多数いた。ブレイクダンス時代からのダンサーと一緒に、こういった人たちが日本のストリートダンスを単なる流行のものから、根をしっかりおろした文化として形成していった。